考古学vs歴史に学ぶ
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▼ 2011年3月7日(月) 15:26:05
昨日、高崎(群馬)で多胡郡建郡1300年記念事業シンポジウムが開かれた。
題して「多胡碑は何を伝えようとしたのか−多胡郡の成立とその時代−」
地味な集いにしては 2200人の会場が満杯になる盛況だった。
土生田純之氏(専修大学教授)をコーディネーターに、平川南氏(国立歴史民俗博物館館長)が古文書的側面から、亀田修一氏(岡山理科大学教授)が歴史的地政的側面から、右島和夫氏(群馬県県文化財保護審議会委員)が遺物遺跡など物的史料から、1300年前の石碑について読み解いていく様に魅せられて、楽しい一日を過ごすことができた。
講演を聴きながら、ふと思い出したことがある。
「神の手」と言われ、次々と日本の旧石器時代史観を塗り替えていった、考古学者藤村新一による偽造事件のことだ。
この事件から私が得た教訓の一つは「複眼視」だ。
- 物事にはさまざまな面がある。だから、さまざまな観点から検討しなければならない。
と言うことだった。
そこで、改めて「人の言葉」について振り返ってみよう。
言葉には、音声と言う面と文字と言う面がある。
今日では手話も広まってきた。
言葉には扱う側(人、脳)の面と、人から自立しているかに見える言語と言う面もある。
音声自動認識は、コンピュータの高性能化と共に急速に進んできているが、そのことによって かえって、音声だけ見ていては前に進まなくなっているようだ。
生成文法が一世を風靡してかなりの年月が経つが、音声と切り離したところで言葉だけを取り扱う無理が蓄積されてきているのではないだろうか?
世界が狭くなりつつある時だからこそ、言葉への多面的な取り組みが 必要なのだと思う。
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彼はつぎつぎと画期的な石を発見し、日本の旧石器時代を数万年から十万年以上も遡らせて行った。
そのころ予備校の講師をしていた私は、古文や理科の講師と、「おかしい、日本だけそんなに古いはずがない」などと話題にしていたので、よく覚えている。
そのウソが暴かれたのはそれから1年も経たないうちだった。
発掘現場に先回りして、それらしい他の時代の石を、もっと古い地層に埋めておき、それを「発見」していたのだった。
問題は、偽造した藤村ひとりにとどまらなかった。彼の発見を支持してきた考古学会そのものが問われ、今だ、考古学会は立ち直れて居ない。
それは
- なぜ、偽物を見抜けなかったか?
- なぜ、偽物だと思っていた考古学者が、発言の機会を得られなかったか?
- なぜ、人類史やアジア周辺地域との関係など、多角的視点をもてなかったのか?
- では、出土物を科学的に判断するには、どうすればいいのか?
などなど、山のような課題が押し寄せたからだった。
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