「天王の森」について
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執筆: 諸星蝸牛 2010.02.08
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もくじ |
- 天王森に神社があったか?
- 天王森に神社はなかった?
- 旧社殿が現存
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当時の「天王の森」について調べてみようと思ったきっかけは、研究会でのカルタ編集会議でのことであった。
(へ)の札「幣束を 先頭にたて 堂々行進」の説明文案に以下の一文があった。
- この天王森は、八幡太郎義家が東北の蝦夷を討つために戦勝の祈願をあげた神社(進雄神社)です。
天王の森は、明治2年10月の高崎城下押し寄せのために、前夜から数千の農民が結集した場所であり、騒動を知る上で大切な場所である。今そこには 立派な鳥居と社殿が構えている。名前を進雄神社(スサノウ)と言う。
しかし、幕末から明治維新の当時は 違ったのではないか?
ひょっとしたら、そもそも神社はなかったのではないか?
そう推測したのには わけがあった。
- 進雄神社と言う名前は明治になってからの改名で、当時は天王宮とか牛頭天王社と呼ばれていて、今でも地元の人々は「天王さま」と親しんでいる。
- 実際 現在の社殿は近年(平成初年)の建築物である。
- 今日の神社信仰は、明治政府が無理やり作り出した国家神道に端を発していて、当時は神仏融合であった。
- 細野格城本では「柴崎村の天王森」とか「北矢中村の天神森」と書かれていて、天王森に神社があったと言う記録はいっさいない。
- これに対して、上中居村の反町の稲荷神社、貝澤村の五霊神社、南大類村の柳原観音はたびたび登場する
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調べる方法として、古地図を見ることにした。
すると確かに、天王森に 神社はなかったのであった。
念のため、格城本に何度も登場する上中居村の反町の稲荷神社、貝澤村の五霊神社、南大類村の柳原観音を調べてみると、これらは確かに明治初年の地図上にしっかりと記載されていた。
上中居村の反町の稲荷神社
鳥居マークの位置は、現在の地図とも一致する
貝澤村の五霊神社
「五霊祠」と記載され、鳥居マークと境内が見て取れる
東隣の不動寺は今も同じところにある
南大類村の柳原観音
「観世音」と書かれて 卍 マークがある
緑の枠内が天王森で、現在は北西の半分ほどが残っている
鳥居マークなどは見当たらない
左上の青い四角が、現在の進雄神社のある場所
資料出典: 明治前期 関東平野地誌図 1880年〜1886年
明治13年〜明治19年 2万5千分の1
このように、当時の地図にも、格城本にも神社の記載がないことからすると、やはり天王の森には神社がなかったということになる。
しかし、進雄神社の伝記や、「天神の森の境内」と言った表現から、やはり神社はあったはずである。
そうだすると ありうることは、非常にみすぼらしくて見捨てられたように朽ちた祠以下のものがあったのではないだろうか。なぜ「祠以下」かというと、明治初年の地図には祠は記載されているからである。
少なくとも 電子紙芝居用に追加した絵のような社殿などは、なかったのである。
電子紙芝居の一幕
当時 このような社殿はなかった
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ところで、現在の社殿は 平成の4、5年ころに完成したものだが、そのときの古い社殿は移築したとのことである。その旧社殿は 現社殿の東隣にある稲荷となっている。
一間四方の簡素なつくりである。屋根など前面改築されているが、土台や柱、軒下の彫刻などは 古色を帯びている。
この作りを、建立年月(嘉永5年、1852年)がわかっている柳原観音と比べると、どうやらそれより新しいようである。つまり、天王宮の社殿は1852年以降のもののように感じられた。
天王森の天王宮が 当時 どのようなものであったか、もっと調べてみることにする。
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