古図で読み解く高崎城下押し寄せ門訴
|
細野格城「五万石騒動」の記述にそって、高崎城下押し寄せ門訴の実態を、古図で読み解いてみた。
ここで参照した古図は以下の5つ。
- 御城内外惣絵図 従追手御門南之方(1810年6月)(文化7年6月)
- 明治前期 関東平野地誌図(1880年〜1886年)(明治13年〜明治19年)
- 遠御構筋絵図(1813年6月)(文化10年6月)
- 高崎御城内外塁図
- 御塀狭間形古絵図
|
もくじ |
- 岩押村を通って
- いよいよ通町口へ 【遠構】
- 通町木戸を押し開き、連雀町木戸を押し倒す 【木戸】
- 升形木戸まで押し寄せる 【広小路の芝生】
- まとめ
|
|
|
岩押村(A)付近までは道路が狭いので二列なる故、しんがりの者は未だ天王森の焚火に暖を採り居ると云う様の次第で実に大したものでありました。 |
細野格城「五万石騒動」より |
明治前期 関東平野地誌図
岩押村は戸数10戸程度の小さな村ではあったが、玉村方面(高崎城の東)から来るときに、高崎城下に入る手前の、最後の集落となっている。この岩押村から高崎城下までは、見通しの良い田畑だけの地形で、距離(AB間)も700〜800mほどしかない。
- 岩押村にさしかかった隊列は、道も広がり、目前にせまる城下まで、さえぎる物のないところにさしかかり、気持ちはいやがうえにも高ぶっていたことであろう。先頭を進んでいたと思われる丸茂元次郎の思いはいかがなものであったろうか?
|
|
江戸末期当時の高崎城下は、グルリを水路で囲まれていたようだ。それを「遠構」と呼んでいる。古絵図には「遠御構」と記載されている。周囲は東西が1000m、南北が1250m程度。
この遠構をはさんで、内には家々が建ち、外には田畑が広がると言った風景が推定できる。
高崎御城内外塁図 とその楕円内拡大図(右)
岩押村(A)も過ぎて遠構(D)へ差しかかりいよいよ通町口(B)へ到った頃、しんがりはようやく天王森をそろそろ繰出すと云う位に陸続いた輿論の人気が一時に集注した事であれば、そのすばらしき事喩えるにもの無く、少壮決気の者ばかりなれば、元気旺盛、高崎藩の家中一呑の風であった。 |
細野格城「五万石騒動」より |
明治前期 関東平野地誌図
- 通町木戸(B)からも、岩押村を抜けて迫ってくる農民の隊列は、はっきりと見えたことだろう。通町木戸が簡単に破られたことからすると、すでにこの光景を目にした城方の役人は、気が失せてしまったのではないだろうか。
さらに、遠御構筋絵図(1813年6月)によれば、遠構のすぐ内側にはずらりと木が植えられていた。絵図では、水路に沿って黒い点として樹木の位置と名前が記録されている。
遠御構筋絵図(通町木戸、安国寺付近)
- 岩押村を過ぎた農民達の目にしたものは、目前に広がる田畑、その向こう側に左右1km以上も壁のように続く緑の並木、その上に突き出した安国寺、大信寺などの寺々の瓦屋根、さらにその向こうが天守閣。
- 歩を進める道のその先だけ並木が途切れ、固く閉ざされた通町の木戸。
|
|
農民隊列の城下でのコースは、安国寺を回りこんで追手門に進む500mほどの道のりである。
その行く手には、通町木戸(B)、連雀町木戸(E)、升形木戸(F)の3つの木戸があった。
升形木戸(F)/連雀町木戸(E)/通町木戸(B)
御城内外惣絵図 従追手御門南之方
さても百姓側の方も後へと押しかけ詰めかけ、同勢ますます差し加わり、一時は町奉行や道心の剣幕に躊躇いたしましたが、どうしてこれしきの事で恐れ引き込むという弱虫は一人もありません。そうこうする内に、下ノ城村高橋弁五郎と申す者が木戸(B)より十間ばかり先方へ回り、野猿の如く用水路を飛び越え、難なく木戸内へ入り、疾風の如く走りて閂を抜きましたので、一同の者どやどやと雪崩を打って押し込んだ・・・ |
細野格城「五万石騒動」より |
通町木戸(B) 御城内外惣絵図 従追手御門南之方(左)、遠御構筋絵図
さても通町木戸を難なく通過せし百姓たちは、段々進んで安国寺門前まで押し寄せました。ここにも連雀町分に木戸(E)がございまして、この木戸は三十人ばかりで押しましたところ、たちまち押し倒してしまって、真一文字に升形の木戸(F)の際まで押し寄せたが、ここはとにかく、前の二ヶ所のとはこと違い、構造が至極堅固で、たやすくいかに大勢だからというてもなかなか無手ではとても破壊のできるはずのものでございません。 |
細野格城「五万石騒動」より |
升形木戸(F)/連雀町木戸(E)/通町木戸(B)御城内外惣絵図 従追手御門南之方
絵図で見ると、通町木戸(B)と連雀町木戸(E)は、これと言った構造物は描かれていない。水路に渡した橋のような水色の表示があるだけである。
それに対して升形木戸(F)は、道路中央に太い柱で構築された構えが描かれ、「食違木戸」と表記されている。下図のようなものであったろう。
升形木戸(F) 御塀狭間形古絵図
- 堅固と言っても、丸太で突くなり、斧で叩き割るなりすれば壊せなくもなさそうだが、武器はもちろん道具類も持ってこなかった「無手」の農民たち。升形木戸をはさんで、役人たちと対峙することとなった。
|
|
ここにて喰い止められ、ついに目的たる広小路の芝生の上へ座り込む事ができなかったのは、遺憾の事でございました。そんなこんなの内に、三千余の大勢が連雀町及び通り町へ入り込んだので、往来はもとより止まり、立錐の余地も無く、人をもって埋めてしもうた。 |
細野格城「五万石騒動」より |
城下に押し寄せるという、15日からはじまった3日がかりの今回の行動の目的は「広小路の芝生の上へ座り込む事」であった。その広小路の芝生に陣取って、高崎藩に要求を突きつけよう(門訴)というのである。
その、ついに実現しなかった「広小路の芝生」というのはどこにあったのか? それは、絵図によれば升形木戸(F)から追手門に到る途中の左右に縦横100m四方ほどの中に3箇所あったようだ。絵図には「芝間」と書き込まれている。現在のデパート(スズラン)あたりになる。
広小路の芝生 / 御城内外惣絵図 従追手御門南之方
|
|
高崎御城内外塁図
「高崎御城内外塁図」を見ると、城下は何種類かに色分けされている。それは、以下のように読み取れる。
今回の農民たちの目的であった「広小路の芝生の上へ座り込む」というのは、白色の領域に入っている。つまり、武士(役人)の領域に正面から勝負を挑んだのだった。
当時は今以上に明確な階級社会で、住む場所もはっきりと区分されていた。
- 天守閣を中心とし、濠と石垣で囲まれた武士階級(役人)
- 城を中心とし、遠構で囲まれた町民階級(商人、職人)
- 城下町の外に、集落(村)を形成する農民階級(百姓)
農民が集団で、自分たちの集落を出て、城下町に入り込み、さらに追手門に迫るということの「非日常性」「階級秩序への挑戦性」は、現在の私たちには、スグには理解できないかもしれない。
高崎領 五万石の農民たちは、それほどの必死さで政治(藩政)に関わり、生活(税制)を改善しようと決意したのだ。
騒動と呼ばれるものは、既存の秩序(法や手続き)では問題を解決できなくなった社会が発信する生体反応なのかもしれない。
|
[↑] 6 |
執筆: 諸星蝸牛 2007.02.26
校正: 2007.03.16 誤字訂正
|
|