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数字で読み解く高崎城内押し寄せ門訴と、動員の実態


高崎五万石騒動(通称 五万石騒動)は、その記録によれば、足掛け3年間にわたる長い日数と、高崎藩領内全村全戸周辺諸藩を巻き込む規模において、類まれな農民運動であった。そして、その時期は、明治2年から4年と言う、明治政権の確立期=時代の大きな変わり目であった。

こうした騒動を起こした農民の参加の様子はどうだったのか?・・・という問題意識をもって、とくに数字の面から、実態に迫ってみた。


もくじ
  1. 細野格城著作「五萬石騒動」より見た動員数
  2. 細野格城著作「五萬石騒動」に見る各村石高
  3. 村ごとの動員数と石高の関係
  4. 村ごとの動員数と戸数の関係
  5. 車連判状に見る村総ぐるみの決起
  6. 動員方針
  7. まとめ
  8. あとがき

[↓] 1
 1 細野格城著作「五萬石騒動」より見た動員数もどる
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高崎五万石騒動の基本資料である、細野格城著作「五萬石騒動」(五万石騒動)のなかに糸口があった。

明治2年10月17日早朝、天王の森に集結した農民三千余りは、2つの木戸を押し破り、高崎城内に押し寄せ、追手門を目の前にした、升形木戸(=食違木戸)で押し留められた。そのまま目抜き通りに陣取った農民たちに、町家の人々は差し入れと炊き出しをもって迎えたのだった。
細野格城著作「五萬石騒動」には、このとき、農民たちが受けたもてなしの数々が、事細かに記載されている。

講金世話役関根作右衛門より焚き出しを受けたもの 
浜川村 150人
高関村 20人
浜尻村 65人
下佐野村 95人
・・略・・ ---
1202人

正米一人二合、味噌野菜を供給され自炊したもの 
中泉村 60人
上飯塚村 130人
下中居村 100人
三ツ寺村 58人
・・略・・---
2167人

炊き出しも正米も受けないうちに帰村したもの 
栗崎村 50人
江田村 35人
倉賀野上組 150人
235人

こうして村ごとに数え上げた人員は総計3602人に及ぶ。さらに、これらの村のほかに、上大類村、江木村などからの途中参加が、計800人ほどいたとして、10月17日の行動に参加した総人員を4400人としている。

内容と文脈「(志に)与かりたる村名ならびに人員その他を参考のため調査いたしましたが概略は・・・」からすると、一件落着の後日に、各村ごとに詳細に調べたようだ。

こうした人数は、当日の各村ごとの動員数と考えてよいだろう。個々バラバラに参加したとか、小グループで参加したと言うより、村単位で行動していたように読み取れる。
[↑][↓] 2
 2 細野格城著作「五萬石騒動」に見る各村石高もどる
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細野格城著作「五萬石騒動」には、当時の高崎藩城附き領分5郷各村の石高が記してある。

村名 石高
西郷組 
下並榎村 389石5斗6升6合
上並榎村 712石3斗7升2合
・・略・・ 
総計 5万6725石5斗8升3合

これにより、各村の生産高=生産労働力=農家の戸数を読み取ることができるので、これと、動員数とを比べてみた。
[↑][↓] 3
 3 村ごとの動員数と石高の関係もどる
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以上、細野格城著作「五萬石騒動」に記録されている城内押し寄せ門訴の動員数(寄進を受けた者の数)と石高を、村ごと(全部で43村のデータ)に比べて相関図にしたところ、興味深い結果となった。


  • 村ごとの石高と動員数が共に判明している41村のデータにより作成
  • 動員数は1869年10月17日に、町民より炊き出しや差し入れを受けたもの
  • 石高は細野格城著作「五萬石騒動」によるもの

上図のようにとても強い相関関係を示したのだ。動員数と石高がほぼ比例していることが見て取れる。これは、村ぐるみの参加を示していると思われた。つまり、個々人の思想信条生活状態にあわせて個々バラバラに参加したというよりは、個々人の思想信条生活状態を共同体として体現した村の総意として全戸動員(1戸あたり1人参加)をかけたような印象を受けた。

しかし、これだけでは不十分で、「村ぐるみの参加=全戸動員」を示すには、村ごとの戸数が必要と考えた。
[↑][↓] 4
 4 村ごとの動員数と戸数の関係もどる
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江戸末期か明治初年の村ごとの戸数の情報を探してみると、運良く慶応2年(1866年)7月の高崎藩内の村ごとの戸数のデータを、高崎藩領内全村ではなく約半数の27村分ではあるが、見つけることができた。高崎五万石騒動が起こったのが1869年なのでわずか3年前のデータである。

村名 戸数 人口
上大類 58戸 370人
中尾 152戸 565人
大八木 118戸 451人
・・略・・ 

そこで、このデータを使って村ごとの動員数と戸数の関係を相関図にした。


  • 村ごとの戸数と動員数が共に判明している22村のデータにより作成
  • 動員数は1869年10月17日に、町民より炊き出しや差し入れを受けたもの
  • 戸数は慶応2年(1866年)7月のもの

結果は上図の通りで、やはり強い相関関係(正比例)を示した。しかも、「参加数=戸数」と言うように、「1戸1人の全戸動員」を明確にすることができた。
[↑][↓] 5
 5 車連判状に見る村総ぐるみの決起もどる
もくじへ
村と参加者の関係を見ることができる資料として、今ひとつ、「車連判状」がある。これは、藩への請願をするに当たり、村ごとに総代を選び、団結を固める目的で、参加者の名前を記し印を押したものである。

当時の連判状が幾つか伝えられている。そこに記載されている人数と村の総戸数を調べてみた。連判状には家として戸長(世帯主)が署名捺印したと想定される。


村名 署名数 戸数 署名率
下小鳥村連判状 99人 112戸 88%
筑縄村連判状 28人 30戸 93%
大八木村連判状 約85人 118戸 72%
浜川村連判状 117人 130戸 90%

こうした数字を見ると、「村ぐるみの決起」「村の総意としての減税運動」ということがわかるが、他方、個々人の思想信条立場において、1〜3割前後の農家は、表立った参加を断っていたこともうかがえる。村の大勢が「減税請願、城内押し寄せ、門訴」と動く中で、それに組しない農家もあったのだ。

1〜3割前後の農家は参加を断っていたという点を、逆の側から見ると、個々の農家の立場や考え方は必ずしも同一ではなかったが、もはや既存の政治秩序の中では解決不能と判断し、時の権力者に対して実力行使に打って出ることによってしか未来を切り開けないという選択を、大多数の農家が行なったと言うことになる。
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 6 動員方針もどる
もくじへ
さて、ここにもうひとつ、動員の様子を知る上で貴重な資料がある。
それは農民たちの代表者会議での決議事項にある動員方針だ。

細野格城著作「五萬石騒動」の「五郷の百姓評議の事」という項目によると、城内押し寄せを決行する1ヶ月半前の9月2日に、高崎藩五郷の代表者十数人が正観寺に集合し減納願いの運動方針を評議した。その場で佐藤三喜蔵は「五万石各村へ通知をなし、かの佐倉騒動の様に百姓は男子十五歳以上六十歳まで残らず蓑笠に身支度をなし、高崎城下へ押し寄せ門訴をするが上策ならん」と提起し、満場一致で了承されている。

この部分の動員方針「男子十五歳以上六十歳まで」を参考にして、農民の参加の様子を数字で追ってみよう。「男子15〜60歳」が全人口に占める割合は不明だが、男子の半分と推定(やや少なめか?)して計算すると下の表になる。

村名 人口 15〜60歳人口 動員 動員率
上並榎村 364人 91人 80人 88%
乗附村 715人 179人 150人 84%
寺尾村 455人 114人 84人 74%
石原村 965人 241人 250人 104%
我峯村 175人 44人 35人 80%
西新波村 125人 31人 17人 54%
上小鳥村 130人 33人 40人 123%
下小鳥村 530人 133人 85人 64%
大八木村 451人 113人 115人 102%
上小塙村 290人 73人 62人 86%
南新波村 176人 44人 62人 141%
楽間村 155人 39人 35人 90%
菊地村 167人 42人 30人 72%
浜川村 494人 124人 150人 121%
筑縄村 193人 48人 35人 73%
貝澤村 565人 141人 190人 135%
濱尻村 272人 68人 65人 96%
井野村 289人 72人 85人 118%
中尾村 565人 141人 130人 92%
小八木村 370人 93人 90人 97%
正観寺村 250人 63人 45人 72%
高関村 120人 30人 20人 67%
        
1954人 1855人 平均95%

  • 人口、動員数が共にわかっている22村だけを対象にした、ちなみに17日の門訴歎願書に名を連ねているのは47村
  • 人口は慶応2年(1866年)7月のもの
  • 動員数は1869年10月17日に、町民より炊き出しや差し入れを受けたもの
  • 男子15〜60歳が全人口に占める割合は、男子の半分とし、男子は全人口の半分とした
  • 男子15〜60歳が全人口に占める割合は25%より多いだろうから、このことは「平均95%」という数字を押し下げるが、他方、車連判状への署名率7〜9割からみた、参加農家の割合を考えると、これは「平均95%」という数字を押し上げる

平均95%」という数字はかなりの概算だが、一つの傾向ははっきりと示している。それは、予定動員数をほとんど達成しているということだ。
10月17日早朝の城下押し寄せは、前日16日、前々日15日と事が発覚して蹴散らされ、方針が二転三転し高崎領内を小集団に分かれて右往左往させられていたなか、ようやくにして実現したことを考えると、驚くべき数字と言える。

これは、農民たちの気概と団結の強さを物語っている。
[↑][↓] 7
 7 まとめもどる
もくじへ
高崎城内押し寄せ門訴と、動員の実態を数字で読み解くことで、高崎領内五郷の農家の7〜9割が積極的に参加し、成人男性のほとんど全てが決起すると言う状態であったことがわかってきた。

もはや既存の政治秩序の中では解決不能と判断し、時の権力者に対して実力行使に打って出ることによってしか未来を切り開けないという選択を、大多数の農家が行なったと言うことになる。

あるいは、明治維新=新政権の誕生=藩政の瓦解と言う中で、自分たちの政治的主張(税制改革)を貫徹する好機と判断したのだろう。
そして、注目すべきことは、そうした政治的判断を「城内押し寄せ、門訴」という行動に移し、成し遂げると言う自治組織を持っていたことだ。

このあたりの事情と背景があってこそ、足掛け3年間にわたる長い日数と、高崎藩領内全村全戸周辺諸藩を巻き込む規模において、類まれな農民運動を闘い抜き、ついには、税制改革を勝ち取ること(願意貫徹)ができたのであろう。
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 8 あとがきもどる
もくじへ
ここでは、農民の行動と組織に焦点を当てて資料を読み解いていったが、城内の住民(=町人)の側の行動と組織はどうだろうか?

秋の日の早朝から、3〜4千人の農民が城下に押し寄せ、木戸を破り、往来を埋め尽くすという、尋常ならざる事態に、
  • 1202人分の炊き出し
  • 2167人分の自炊
で応じている。自炊用の米が一人当たり2合というから、一人2食分は提供したのだろう。とすれば約7千食分を、事前の予約もなしに、即座に準備し、まかなったことになる。今の高崎市街にそのような力があるだろうか? あるいは、たとえば朝の9時ごろに急遽7千食分を、金を払ったとしても集められるだろうか?
そう考えるとき、町民の行動と組織もなかなかにしっかりしたものがあったと思われる。
さらには、農民と町民の組織的な関係と言うものも、当然そこにはあったはずである。

江戸時代というものは、今日の我々よりも自治と文化が成熟した社会であったのかもしれない。あるいは、今日では中央に中央にと集まっている「」が、それぞれの地域社会の中にしっかりと根ざしていた時代だったのかもしれない。
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執筆: 諸星蝸牛 2007.02.15