城内押し寄せ/その道筋
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高崎五万石騒動の山場は、やはり高崎城内への押し寄せである。
そこで、その道筋を、集合場所の柴崎村天王森から、城内までを調べた。
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もくじ |
- はじめに
- 細野格城「五萬石騒動」の記述に添って
- 先頭が城下に到った頃、最後尾はようやく森を出発するころだった・・・か?
- 木戸について
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城内押し寄せの概要は以下の通りである。
高崎藩へ4千人で直訴(1869年=明治2年) |
10月17日の夜明け、5郷61ヵ村3千の農民が、村々の旗を押し立て高崎城下に向けて出立。途中合流も含め4千の農民と61ヶ村の村旗が高崎城枡形から安国寺までの広い往来を埋め尽くし、大惣代三喜蔵・喜三郎・文治郎の3名は、農民の願いのこもった願書を藩役人に差し出した。 |
藩は、大方の要求を認め、10月28日、「田方新領並(新領は岩鼻県並)、畑方永納(金納)とする、但し今年限り」と通達した。しかし百姓衆は承服しなかった。 |
復刻電子紙芝居「高崎五万石騒動−消えない足あと」より |
この押し寄せに16歳で参加していた細野平格(後の格城)が、騒動の40年後に書いた「五萬石騒動」(1911年=明治44年刊行)には、臨場感にあふれる描写がある。この描写と、明治初年頃の地図、そして現在の道路状況を考え合わせて、隊列が城内に押し寄せたその道筋を推定した。
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柴崎村天王森を出発 |
此時丸茂元次郎氏は祈念も済み彼の幣束を持ち来たり、不肖ながら平格を招き「之を持ち行き呉れ」と申されたので、自分も快く承諾して丸茂氏の側にかしづいて居りました。 |
大総代の警戒の訓示も済み、一同の真先に立って進み、夫れから丸茂元次郎氏、次に幣束を持ちました私と云う順に、四千近き百姓其後へ続きて、天皇森を繰出し始めた。(下図@) |
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天王森を北側から望む |
丸茂元次郎宅前を通って |
丸茂氏は我家の前にさしかかると、田や畑の中をまっすぐに我が家指して飛び込みたれば、これを見たる人々は何事ならんと見ておりますと、子供着の箕を背の中央に着て、急ぎ帰って来られました。(下図A) |
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丸茂元次郎宅付近から遠く高崎城方向を望む |
岩押村を通って |
岩押村(下図B)付近までは道路が狭いので二列なる故、しんがりの者は未だ天王森の焚火に暖を採り居ると云う様の次第で実に大したものでありました。 |
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岩押村付近から通町方向を望む |
いよいよ通町口へ |
岩押村も過ぎて遠構へ差しかかりいよいよ通町口(下図C)へ到った頃、しんがりはようやく天王森をそろそろ繰出すと云う位に陸続いた輿論の人気が一時に集注した事であれば、そのすばらしき事喩えるにもの無く、少壮決気の者ばかりばれば、元気旺盛、高崎藩の家中一呑の風であった。 |
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通町木戸のあったあたりの交差点から城内の方向を望む |
通町木戸を押し開く |
さても百姓側の方も後へと押しかけ詰めかけ、同勢ますます差し加わり、一時は町奉行や道心の剣幕に躊躇いたしましたが、どうしてこれしきの事で恐れ引き込むという弱虫は一人もありません。そうこうする内に、下ノ城村高橋弁五郎と申す者が木戸より十間ばかり先方へ回り、野猿の如く用水路を飛び越え、難なく木戸内へ入り、疾風の如く走りて閂を抜きましたので、一同の者どやどやと雪崩を打って押し込んだ・・・ |
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通町木戸を押し開いて、城下へ押し入る |
連雀町木戸を押し倒す |
さても通町木戸を難なく通過せし百姓たちは、段々進んで安国寺門前まで押し寄せました。ここにも連雀町分に木戸がございまして、この木戸は三十人ばかりで押しましたところ、たちまち押し倒してしまって、真一文字に升形の木戸の際まで押し寄せたが、・・・ |
升形木戸まで押し寄せる |
・・・真一文字に升形の木戸の際まで押し寄せたが、ここはとにかく、前の二ヶ所のとはこと違い、構造が至極堅固で、たやすくいかに大勢だからというてもなかなか無手ではとても破壊のできるはずのものでございません。・・・ここにて喰い止められ、ついに目的たる広小路の芝生の上へ座り込む事ができなかったのは、遺憾の事でございました。そんなこんなの内に、三千余の大勢が連雀町及び通り町へ入り込んだので、往来はもとより止まり、立錐の余地も無く、人をもって埋めてしもうた。 |
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「岩押村も過ぎて遠構(とうがまえ)へ差しかかりいよいよ通町口へ到った頃、しんがりはようやく天王森をそろそろ繰出すと云う位に・・・」という表現は本当だろうか? この素朴な疑問を検証してみた。
- 人数
- あるところでは「四千近き百姓」、別のところでは「三千余の大勢」とある
- ここでは仮に3千5百人としておく
- 距離
- 天王の森から通町口まで、道のくねり具合も考えるとおよそ4〜5km
- 「岩押村も過ぎて遠構へ差しかかりいよいよ通町口へ到った」に注目し、「遠構へ差しかか」ったまでの距離として
- ここでは仮に4kmとしておく
- 【遠構】城下町を取り囲む水路で内側が通り町の町家、外側が田畑
- グループ
- 前夜から天王の森に集結して焚火をして一夜をあかしたとき、焚火の数は「143程」あったとある
- 前夜から天王の森に集結していたものの他に、いったん自宅に引き上げ、朝になって行進中に加わったものもあることを加味して
- ここでは仮に150グループとしておく
- 行列
- 「岩押村までは道が狭いので2列」とあることから
- ここでは仮に前後間隔1mの2列縦隊としておく
かなり雑な予測ではあるが
3500人が150グループに分かれて4kmに均等に並んだ
としてみると
- 1グループあたりの人数=3500人÷150=23人
- 1グループあたりの長さ=23人÷2列×1m=12m
- 1グループあたりの占有距離=4km÷150=26m
つまり、長さ12mの23人の集団が14mおきに行進していたことになる。
1隊のイメージ/2列縦隊23人
間隔をあけて隊列が続いている様子
こうしたイラストを見ると、かなり現実的な様子であることがわかるので、確かに「岩押村も過ぎて遠構へ差しかかりいよいよ通町口へ到った頃、しんがりはようやく天王森をそろそろ繰出すと云う位に・・・」なっていたのではないだろうか。
ところで、無線通信などなかった当時、どうやって「岩押村も過ぎて遠構へ差しかかりいよいよ通町口へ到った頃、しんがりはようやく天王森をそろそろ繰出すと云う位に・・・」なっていることがわかったのだろうか。これは、推定コースをたどると納得できるのだが、このコースはとても平坦な道のりで、当時は周囲に建造物がない田畑が広がっていたことを思うと、はるかに見渡せたのではないかと思われる。しかも、各隊列はそれぞれ村旗を掲げていたと推測されるので、なおさらである。
実際、最近開通した新しい高崎駅東口から東に伸びる道路が、ちょうど、天王の森近辺を通っているので、そのあたりからはるかに高崎駅市街地方面を望むことができる。
はるかに高崎市役所を望む平坦な地形
以上の考察から、確かに「岩押村も過ぎて遠構へ差しかかりいよいよ通町口へ到った頃、しんがりはようやく天王森をそろそろ繰出すと云う位に・・・」なっていたと思われる。
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江戸時代の「木戸」とはどのようなものであったか。
当時の絵を調べたところ、木戸が描かれた絵が何枚かあった。
城下町での木戸
狂歌入東海道/亀山/広重画
宿場町での木戸
行書東海道/庄野 人馬宿継之図/広重画
木戸の管理(木戸番)は、木戸の内側の町内に任されていたので、通町と連雀町との間にあった木戸は、城から見て内側となる連雀町が担当となる。それで、細野格城の「五萬石騒動」では「連雀町分に木戸がございまして」という表現になっている。
通町木戸では、通町の名主である小林彦八が木戸番を命じられていた。
当時、高崎城下への出入り口は7ヶ所あり、そのうち大類・玉村方面への通行路が通町木戸から東へと伸びていた。城下に押し入った百姓たちはこの道を通ってやって来たものと思われる。そして通町木戸の内側と外側の境には用水路があり、内は城下町となっていたが、外(現在の旭町)は田んぼになっていた。
紙芝居「高崎五万石騒動−消えない足あと」(絵:丸茂利夫)では、木戸突破の場面の絵が活き活きと描かれているが、その木戸が、堂々とした門構えの「門」となっていて、さらに屋根の上に人が乗り、手招きをしているように見える。これは、描き間違えたものである。
通町木戸突破の場面
紙芝居「高崎五万石騒動−消えない足あと」絵:丸茂利夫
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執筆: 諸星蝸牛 2007.02.11
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